2012年06月27日

そのままの時を生きる

小沢健二「我ら、時」展覧会とポップ・アップ・ショップ

この日にしか行けなくて、時間をとても気にしながら
飛び込むように会場へ。
運がよくて、そこには私しかいなかった。


液晶画面をしばし離れて、静かで密やかな時を
歩いてみませんか?
きっと何か新しい感触、あるいは大きな樹のように
古い感触を持って、トンネルから出てきていただける
気がしています。
http://www.parco-art.com/web/other/exhibition.php?id=478


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90年代、私はその他大勢の同世代たちと同じように、
彼のことをとても好きだった。
私自身がさまよっていた時代(ピアノの引越し回数が
多いのも、この流離があったからこそ)、小沢氏が
何を考え、どこに進んでいるのか、理解できなくても
共感できていたように思う。

今、益々理解できない、けれど、やはり、何かを
信じようとする私がいた。


この表現でよいのか。
展示された写真作品、こぼれ落ちてくる朗読、音、光、
これらに取り巻かれたなか、
私自身に対して、自問自答する、し続ける。

ささやくことは、本当に難しい。
全員に伝わらないことを、わかっていて行動するのは、
本当に勇気がいる。

けれど、実は当たり前のことではないのか?

迷い、ふらついてばかりいる事。
ただ、考え続けていく。







posted by K10 at 19:26| 展覧会

2012年06月10日

流動する境界とそれを操ること

《魔術/美術−幻視の技術と内なる異界》
 2012年4月13日→6月24日
 愛知県美術館

愛知・岐阜・三重の3県立美術館の、第6回目の協同企画展。

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既に観たことのある作品も多かった。
(岐阜県美のコレクションはなかなかにツボ)
それらを、独特の視点を軸に並べてみせることで、
新しい感覚を呼び起させる。
展覧会の主題として、そんな目的もあったのだと思う。
そしてその手法自体が、私のプログラム・ビルディングの方法に
近しい部分があるように感じて、ううむ、色々と考えてしまった。

20世紀末からこちら、「境界」とやらは、
当たり前だが何にもなくなってはいない。

ただ、異様に流動する。

私はその「流動する境界」を操作したいのではない。
はっとする瞬間に、獣のように飛びつき捕えたい、
時に切り取りたい。

何よりも、あるがままに。


しかし果たして、…。



図録の解説にあった「コレクションとスーヴニール」の定義。

すなわち、コレクションは分類を経て美術の動向など抽象化された一連のコンテクストへ再配置されるもの
である。その過程において、固有の過去は取り替え可能なものとなり、コレクションというシステムが全てに優先する。一方、スーヴニールはより個別的で物語性を孕んでいる。対象物と、それが本来あった場所、時間、そして、それを眺める「私」が遠く隔たっている場合、その断絶こそが見る物の欲望、空想を刺激する。

中村史子「コレクションの魔力」展覧会図録p.11



ここに反応する私は、もう何年も前から同じ壁の前にいる。

この展覧会、作品ではなくその主題そのものに対して、
私は随分と個人的な問題意識を観てしまったらしい。
そしてそれをこうして晒してしまうのは、私の名にかかった
呪のせい、ということにでもしておこうか。
(昔むかしの、ロシアのマジシャンと同じ名前なんです。
「魔術」の言葉に妙な反応をするのは、きっとこのせい)


* * *

この日の午前中は、発表会の伴奏のお仕事だった。
時にアクシデントもあるが、それすらも美しいと思う。
音楽を趣味としてシンプルに愛する人々から、
学ぶことはいつも本当に多い。

     
それにしても、長い一日だった。






posted by K10 at 23:58| 展覧会
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