−異色作《ピグマリオン》を中心に−
2012年6月30日(金)武蔵野市民文化会館小ホール
http://www.musashino-culture.or.jp/eventinfo/2012/02/post-33.html

ホール階段のシャンデリア。子供の頃からこういうの好き。
修士課程でのテーマをリストの朗唱曲《レノーレ》に定めた私は、
第1回目のゼミ発表にルソー《ピグマリオン》を選んだ。
いわゆるmelodramaと呼ばれる作品の始まりとされる。
ルソーのこの不思議な作品について調べるうち、本演奏会の
存在を知る。が、すでに完売(さすが東京…)。
殆ど諦めていたのだが、偶然たどり着いたサイトで券の入手が
可能となり、めでたく観劇することができた次第。
前半は、ルソーの音楽作品と、ルソーの主題を用いた変奏曲。
時に「つまらない、単調」などと言われるルソーの作品、私も
演奏を聴いたのはこれが初めてだったが、とても気に入った!
《3つの音によるエール―なんと日が長いのだ、お前と離れて
過ごすと》これは詞もルソーによるが、まさにミニマムの粋。
超音楽好きの友人夫婦に、すぐさま聴かせたいと思ったし、
たぶんとてもポピュラーになるんじゃないかと感じた。
(という話を大学でしたら、しーんとなったけれど)
《4つのクラリネット二重奏曲》。
長3度の音程は、ルソーにおいては「愛の音程」。
そしてなんという愛おしさに満ちた音楽だろう。
何より、ルソーの音楽に存在するこの感覚は、
非常に21世紀的だと思う。
(それをうまく説明する言葉が、まだ見つからないのだが)
クラーマー作曲《ルソーの夢・主題と変奏曲》。
小川京子氏による、その素晴らしい演奏!
「音色」というものは、かくも慎ましく深く慈しみに満ちた
存在であったのだ。
昨今の、けばけばしく表面的な「音色」に溢れたピアノ音楽に、
自らへの猛省も含め頭を抱えていた私にとって、それはまさに
泉のような演奏だった。
後半に、お待ちかねのメロドラム《ピグマリオン》。
「あらすじ」
仕事に絶望し、以前のように湧き出てこない霊感の枯渇に苦しむピグマリオンには、ふと思い当たることがあった。かつて入魂の技を振って刻んだガラテイアの像を幕で覆って傍らに置き、別の仕事にかかってからというもの、創作力に衰えが目立って来たのだ。ピグマリオンはその幕を取り去って、女神像をあらわにする。かつて仕上げた畢生の大作。しかし、感動と裏腹に、なにかが欠けていることに気づく。鑿を取り上げてみるが、なにか自分の手を拒むものがある。魂が欠けているのだ。様々な思いに身を苛んだピグマリオンが気を取り直して彫像を見つめると、なんとガラテイアの像は命をもってくる。そして台座を降りて彼に近づき、「私」と声を発する。彼女の手に口づけしたピグマリオンは、自分の生命が彼女にかかっているのを知るのだ。
(プログラムノートより)
散文の一人芝居(最後の最後でガラテイアが一言発するけれど)。
ピグマリオンが独り、独白で語り、演技を繰り広げる合間に、
小規模なオーケストラが長短様々な曲を奏する、という形式。
現代においてはそれ程奇異なものではないが、この様式の始祖が
この作品であった、というのは感慨深いものがある。
何といっても、非常に「ロマン派的」ではないか。
この作品は発表されるや直ちにドイツ語圏に広まり、その手法は
モーツァルト、ベートーヴェンにも影響を与えた。
そしてその後のロマン派の時代、多くのサロンにおいてmelodramaは
普遍的なプログラムであった。
リスト《レノーレ》も、まさにその流れから生まれた作品だ。
この点でも、ルソーはずいぶんと先んじていた感がある。
テーマの選択にしても、ギリシア神話に基づいていながら、そこに
表されているのは、「一芸術家」であり、「苦悩する人間」の姿。
(個人的には、ピグマリオン→フランケンシュタインのラインを
妄想して、ぐるぐるぐる…)
* * *
ともあれ、素晴らしい時間でした。
ルソーの思想について、私は全くなんにも理解していない。
が、音楽について感じたことといえば、彼は300年先まで未来に
ぶっ飛んでいた、ほとんど宇宙人的に。
ご覧のとおり何にもまとまっていないのですが、
ひとことでいうならば、
カッコいいなあ、ルソー!
(…。また後日、書きたいと思います…)