2012年03月14日

タウジヒの手

* * *

今朝、伴奏の仕事中、ふいに昨夜みた夢を思い出した。
タウジヒとしゃべっている私。

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カール・タウジヒ(1841年11月4日―1871年7月17日)
偉大なるヴィルトゥオーゾ、フランツ・リストの愛弟子。
その師より「鋼鉄の指」と讃えられた圧倒的テクニックと共に、
哲学的内省を感じさせる演奏で人気を博したが、腸チフスのため
29歳と8か月の若さで世を去った、伝説のピアニスト。


* * *

彼の手を見ている。
隆々した筋肉、しっかりとした骨、指1本1本が際立った、美しいピアニストの手。
ただ、その右手の中指と薬指は、かなり寄っていた。つまり腱が結合していると思われ、そこだけ私の手と似ている。
そのことを、タウジヒと話している、という夢。


なんのことはない。
バッハ《トッカータとフーガBWV.565 ニ短調》タウジヒ編曲版に没頭している今日この頃。どうしても弾きにくくて苦労している箇所が、自分の指の弱点に関連していること。タウジヒについて書かれたテキストに、彼の手にまつわる逸話があったこと。また、彼に師事した女性ピアニストの記述が心に残っていて、それらがそのまま夢にでた。
単純。

(そして、ここに載せた写真をあらためて見てみて、あら、
 夢にでてきた手と少し感じが違うようだけれど、確かに、
 中指と薬指がくっついて写っている。左手だけれど。)

いや、素敵な話なので、少し長いのですが抜粋します。

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 タウジヒは背が低かったが、見ばえは悪くなく、眼は輝きをみせ、燃えるような眼差しだったと、フェイは、彼の写真を同封した手紙で書いている。
「ほんとに、小さいのヨ!」
と何度も強調するように書いているところをみると、よほど、それが強い印象となって訴えたのだろう。したがって、手もあまり大きくなかったようである。
 モノ知りのレンツが、ロシアへの演奏旅行に来たタウジヒに会って、彼の弾いたショパンの《英雄ポロネーズ》を聞いてびっくりし、例のオクターヴのところで、いたく感心している。
「どうして、あんなふうに弾けるんですか?オクターヴを、あんなに粒のそろった音で、しかも、あんなによく響かせて……。それに、つぶやくようなピアニッシモから、雷のようなフォルティッシモまで、よく出せるもんですネ!まったく、不思議だ!」
すると、タウジヒは、自分の手をレンツに見せながら、こう説明した。
「ネ、だから、私がいったでショ。私の手は特別なんだと……」。
そういってから、さらにつづけた。
「見てごらんなさい、私の手を。小さいでしょう。でも、手を自然な形にして鍵盤の上に置くと、左手は、ホ、嬰ニ、嬰ハ、ロの四つの音の上に、ちょうど乗っかるようにできているんですよ。造化の妙とでもいうんですかネ」。
 そのタウジヒは、ショパン以上にショパン的に、ショパンを弾いたとレンツはいっているが、前に紹介したように、ショパンについては、その私生活も含めて、深いつき合いをしていたレンツのいうことだから、ある程度まで信用してもいいのではないか。

※誠に恐縮ながら、出典本のタイトルを失念。わかり次第掲載します。


* * *

「フェイ」とは、エイミー・フェイ。
アメリカ出身の若いピアニストだった彼女は、ドイツに留学し、リスト、そしてダウジヒの弟子となる。
タウジヒはベルリンで自分のアカデミーを設立したが、卓抜したピアニストとしての腕に反し、教師としてはあまり優秀ではなかったようだ。
結局、5年ほどでこのアカデミーも閉じてしまった。
フェイはそのドイツ留学についての、生き生きとした書簡集を出したが、そこには極度に神経質で、どこか精神の安定を欠いた様子の師、タウジヒの姿が書き記されている。

「モノ知りレンツ」は、ヴィルヘルム・フォン・レンツ。
ロシア帝国の参事官で、熱烈な音楽愛好家。ディレッタントながら、リスト、ショパンのレッスンも受けた。19世紀前半の、パリの音楽事情や芸術家たちとの親交を記した著作が残されている。
『パリのヴィルトゥオーゾたち〜ショパンとリストの時代』(中野真帆子:訳、ショパン)の邦訳で楽しんだが、レンツの原書はこの二人の他、タウジヒ、ヘンゼルトの4章からなっている。
あーもう早く読みたいのですが、ああ、ドイツ語…。

* * *

いつもまでもそんな子供っぽいことを言っているからダメなんだと自らを叱咤しつつ、かように、私は彼らに会いたいのだ。

コンサートとは、逢瀬の約束。
なんとしても、約束の地まで、船をつけなければならない。
約束とは音楽そのもので、音楽は次元の壁を限りなく薄くする、
あるいは、次元の壁、そのものなのか…。
私は、この世の約束が守れない。けれど、
約束について、四六時中考える、夢のなかでも。

そういうものだと思う。







posted by K10 at 23:39| 音楽雑記帳

2012年03月25日

『ピアノマニア』

pianomania.jpg

http://www.piano-mania.com/index.html

映画館でのひとときが、とても楽しかった。
お客もまばらな館内、音楽関係の方はいたのかしら。
(なんだか私ひとり、笑いのツボがずれていた気がする…)

私は決して耳のよい人間ではありませんが、
夫と抜き差しならない喧嘩になるのは、たいてい「音」絡み。
ステレオ機材が落ち着くまでは、本当によく喧嘩をしていました。
そういえば今のシステムになってから、随分楽になったなあ。
(夫はプチ・ステレオマニアです。
 むろん生演奏がデフォルトですが。
 現在我が家の機材は全てイギリスのオールドに。)


素晴らしい映画です。
でも、映画の主題とは関係のないところで、ひとつどうしても個人的にひっかかることがある。
今、世界全体が大きく向かっている気がする「音の趣味」の問題。
これはあくまで「趣味」ですから、いい、悪いに振分けることはできません。しかし昨今、クラシックにおける「良い音」が、ずいぶん「デジタル・スピーカー的」とでもいうのか、濁りや揺らぎのない音になっているような気がするのです。デジタル・ロマンを私は否定しませんが、そればかりになるのは、私にはつまらない。
(そもそも、ホールの音響自体が綺麗になりすぎている気もする。
 「音楽空間」について、もっとよく考え観察しなければ。)

ともあれ、映画そのものの楽しさに何ら影響を与えるものでもない。
かねてから思っていたことを、映画によってよりよく考えさせられたと言うべきでしょう。

音の純度の高さ。この本質とは、なんなのだろう。


* * *


親愛なる我が師のレッスンを受ける。

…なんというか、整体院にいった後みたいな感覚。
ひとりで勝手に盛り上がって練習しているうちに、どんだけマニエってたんだ、という。
(いや、この言い方は美化だな。
 要するに楽譜がいい加減になっていた、あーあ。)

4月から学生に戻るのを機に、レッスンも再開することにした。
自らが未熟であることを、完全に受け入れなければと思う。
その上で、今ある立場と責任を背負うこと。





posted by K10 at 23:52| 映画
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